真鍋一史 国際比較調査の方法と解析の書評 by 間々田孝夫
もっとも、日本の研究者の多くは詰まらない事務作業をしている時間のほうが長いので、日本では大学に勤めることはできないだろう。
そういえば、アジア図書館で、社会学評論を見つけたので、例の書評を見てみる。
書評は、余りたいした事は書いてない。バランスの良い書評というものを目指すと、たいてい換骨奪胎の無内容な書評になるという良い例だろう。
前半は内容の紹介、次に、日本の調査研究者が、特殊な調査ばかりを相手にしているという、統計数理研究所の研究者に対する軽い皮肉をかませている、
次に、substantialな視点が欠けている--これは面白い、という一点だけであまりsubstanceなimplicationがないと書いてある。多分それが著者の感想なのだろう。ただ、方法論者にsubstantiveな視点を求めるというのは酷である。方法論に関心があるのであって、substanceは同でも良いというのが、多分真鍋先生の本心だろう。違うかもしれないけど。
僕個人は、政治心理学の具体的なテーマには余り関心が無い。はっきり言って争点投票の空間理論が、proximityだろうが、もうひとつのなんだったっけであろうが、どうでも良い。僕の関心は、科学としての標本調査法の発展にあるのであり、それはblack smithが、優れた刃物を作りたいという欲求に似ているかもしれない。それで、切るものが大根であろうが、人であろうが、鍛冶屋にとってはどうでも良いのである。
それはmad scientistの良い例であるきもする。それを考えると、林知己夫にも僕は結構、共感できるのである。林のデータの科学のあとがきぐらいに、彼が若い頃、零戦の命中率を計算していたと書いてある。最初はパイロットがそれなりに練習をつんでいたのだけれども、だんだん人材が払底してきて、パイロットの力量にも確率分布を導入したたら命中率のモデルがよりもっともらしくなったと書いてある。僕は彼はまさにmad scientistその物だと思った。善悪の基準を人間の基準におかずに、科学に置くというのは、ある意味正しいのだけど、人間界では余り評価されないだろう。
そういえば、彼は統計的仮説検定には常に反対し続けたけれども、多くの人はその簡便さを求めているのだという事を、彼は十分知りつつも、あえて反対し続けたのかもしれない。世間に迎合しないのも、科学者らしい。そう思えば、科学者としての本心と世間の欲求がうまく合致した1950年代から60年代ぐらいが彼の花の時代だったのだろう。
