つまらない文化
授業の教室が舞台で、教師としているのはJimとYさんという林知己夫の弟子である研究者、この設定には特に意味があるとは思わないが。とりあえず、僕が立ち上がって意見を述べていた。しゃべるのは英語。最近は夢も英語と日本語が混じっている。
それはともかく、しゃべり終わると教室からブーイングが。よく見たら周りにいるのは中高時代のクラスメイトたち。彼らがみな、僕の発言にブーイングをしているのだ。
いったいなんだろうと思ったところ、思い出した。これは桐蔭学園では結構ありふれた光景だったということに。授業などで積極的に発言をすると、教室から「やつはしゃしゃっている」(これはしゃしゃり出るから派生した語だと思われる)だとか舌打ちが良く聞こえた物だ。
とても卑しく、情けない根性であると当時は思って、相手にあまりせずにいたが、そういう反応がなくなったのは本郷の文学部に進んでからである。駒場の1年目にはまだクラス単位?で受ける授業があってそこでは、やはり時折ネガティブな反応が見受けられた物である。
あの「出る杭を撃つ」という文化を当時自分がどれほど侮蔑し、嫌っていたかを久しぶりに思い出した。もう忘れたとばかし考えていたが。自分の同僚が何かに秀でていたら、すぐに足を引っ張ろうとするのは非常に貧しい精神である。
無論、ところ変わって米国では、発言をして、授業やゼミの議論に貢献するという事が非常に重視されるしそれが出来ない人間はその存在価値は認めてもらえない。日本の社会でその価値観の中で育ってきた人間には、なかなか適応しずらい環境だろう。米国では授業中につまらない発言をする人間もたくさんいるのだけど、講師も、授業を受けている学生も、詰まらんことを言いやがってなどとは決して言わない。
その点出るくい撃たれる社会では、隙あらば足を引っ張ろうという連中が目を光らせているためか、初めに予防線を張って「つまらない意見ですが」などと最初にのたまう輩がいる。「詰まらないなら言わなくて良いし、自分で詰まらないと分かっている物を他人に聞かせるのは害悪である」と、いまは思う(昔も思っていたけれども)。
日本の学会などに行くと、時々まだそんなことを言う人がいて、「詰まらない意見ですが」といいながら本当に詰まらんコメントを述べていても、「確かに詰まらないコメント有難うございました」などと述べようならば、その先ずっと怨まれるだろう。
友人の心理学部にいるゆりから聞いた話では、brown bagという昼のセミナーで、だれかが質問したのだけれども、その質問を受けた発表者は「質問の意図がわけが分からないので、私がしゃべりたいことをしゃべります」といって、返したらしい。なんと鮮やかな!確かにそれを言いたくなることはとてもよくある。たとえば以下のような返事。
「質問の意図が分からないので、私の好きなことをしゃべりたいと思います」
「確かに詰まらない質問なので、次の質問に移りたいと思います」
こういう詰まらない文化の基では、知識をはぐくみ作り出す事が難しいように思える。そういう意味では僕が中高をすごした桐蔭学園というのはあくまで2流の学校だった。ちなみのこの話を彼女にしたところ、女子学院というのはまったく違って、むしろそのような発言や特技をみなが認めて伸ばせるところだったとか。そういう学校も日本にあったとは。
